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元国際電気通信連合事務総局長 内海善雄    for Global Development  

 「先人の知恵・他山の石」  

第1回 IP化に乗り遅れた超名門通信機メーカー

第2回 IP化の波には気づいていたが、、、

第3回 なぜインターネットに舵を切れなかったのか? @

第4回 なぜインターネットに舵を切れなかったのか? A

第5回 チャンスを掴み取ろうとしない日本企業

第6回 日本政府の対応はどうだったのか

第7回 Tシャツ戦術で交渉を有利に働かせたエリクソン

8回 飲食の知恵

第9回 携帯端末の攻防

 

第1回 IP化に乗り遅れた超名門通信機メーカー May 19, 2022

 日本の代表的なIT企業であるF社の会長とは親しかったので、帰国の際、何度か表敬訪問をした。経営トップとしては珍しく、会長は技術的なITUの活動に関心を持っておられ、自らITU-T(標準化部門)やITU-R(電波部門)の新しい動きを質問されることがよくあった。多分に専門的なことなので、私にはとても回答ができないことばかりだった。技術屋出身の経営者として、常に新しい技術の動向をフォローされていることは、はた目にもよく分かった。その会長が、ある時、「IP技術に傾注しなかったのは大失敗だった。」としみじみと語ったことがある。これほど熱心に新技術の動向を把握されていた会長でも、IT分野の大きな波に乗ることは大変難しかったのである。ましてや技術動向に関心のない者は、波の間に間に消えることは必定だ。 

 1999年、ITU事務総局長としてジュネーブに赴任して、日本では気が付いていなかったことがいくつかある。今振り返るとそれは現在の日本のIT産業、ひいては日本経済衰退の兆候だったことが分かる。その第一が、IP技術の凄さである。

 赴任当初、シスコ社の幹部に何度か会ったが、日本では聞いたこともない会社であった。調べてみるとちょうど10年前に創業し、IPルーターを作っている会社だとのこと。そして、なんと世界の市場をほぼ独占していると知った。郵政省で通信行政に従事し、いわば専門家の端くれだった者がこの様の無知ぶりだった。日本の世間一般では、まだインターネットもあまり分からず、ましてやルーターという機器やその役割は、専門家以外は誰も知らなかったと思う。世の中の一般的な認識は、日本は電子交換機や大型コンピューターで米国企業に負けずに頑張り、半導体でも世界トップの電子機器産業の先進国というイメージだったと思う。そして、高度情報社会を建設するのだと、郵政省と通産省が主導権争いをして覇を競っていた。その真ん中に私はいたのだった。

 当時は、よく各種の情報化に関するデーターが発表され、PCの普及率は米国や韓国よりは低いが、iモード(i-modeにより、インターネットが世界で一番個人レベルまで普及していると自慢する記事を見ていた。更に、iモードを世界に売るのだとNTTドコモは意気盛んだった。日本の情報のみで洗脳された頭では、世界で最も便利なiモードの技術を世界に普及させことは、日本IT産業にとってはまたとないチャンスだと映る。そして政府もその後押しをしたのである。

 しかし、世界の情報が集まっているITUから見ると、違って見えた。携帯電話の日本規格は日本のみで普及、それに引き換え、ヨーロッパ規格のGSMは世界に普及していて、GSMがつながらないのは日本ぐらいである。そして、GSMを製造するノキアやエリクソンが世界を制覇している。一社で日本メーカーの10倍ぐらい製造販売しているのだからかなうはずがない。

 日本では光ファイバーを各家庭までにとキャンペーンをしているが、世界では既存の電話線を利用したADSL方式が一般的であり、韓国や米国では家庭のPCが高速回線につながり、インターネットはPCで使用するのが常識だった。日本は、インターネットの普及で決して先頭集団を走ってはいなかった。

 しかも、格安のルーターにより、NTTのような既存の大企業ではなく、ベンチャー企業によりIPネットワークの建設が急速に進んでいた。網の核となる交換機は、大型の電子交換機ではなく、小型で安いルーターと呼ばれるもの。既存の通信事業者から回線さえ借りれば、誰でもIPサービス(プロバイダー)を行うことができる。そのルーターを独占的に販売しているのがシスコ社だった。

 このような状況なら、世界の個人レベルのインターネットの普及は、日本だけでしか使われてない規格の携帯電話上で開発されたiモード技術をいくら勧めても、選ばれるとはとても考えられない。各国ともADSL回線と格安業者のサービス(プロバイダー)によって家庭のPCを接続することになるだろうと予想が付く。

 更に、当時出現したIP電話が通信業界では大問題であった。IP電話だと長距離回線をショートカットでき長距電話や国際電話が、革命的にコストダウンできる。しかし、世界中の既存の電話会社や政府はIP電話を違法として排斥した。だが、技術革新の成果の利用を法律で禁止することなど長続きできる訳がない。どんどん違法IP電話のサービスを提供する者が現れ、また、私もITU事務総局長としても、格安のIP電話を普及すべく各国の政策調整に努力した。そして、2001年、ITU開催のWTPF(世界電気通信ポリシーフォーラム)で、IP電話を正式に利用させる世界合意を得ることに成功した。人類に及ぼした影響を考えると、この合意は、私の任期中、最大の功績であったと自負できると思う。

 こうなると、長距離や国際電話は、IPネットワーク利用の格安サービス、そして大型電子交換機使用の既存の電話網は、やがて格安のルーターを使ったIPネットワークに置き換わっていくことは明らかである。ならば、通信機器メーカーは、ルーターなどのIP機器を取り扱わなければ、売れるものは無くなる。冒頭、F社の会長がため息をついたのは、ちょうどこの頃だっただろうか。

  さて、なぜF社はIP化の波に乗れなかったのだろうか? ご承知の通り、ため息をついたのはF社の会長だけではない。ATTから分離したルーセント・テクノロジーやドイツのジーメンス、フランスのアルカテルなど超一流世界通信機器メーカーも、カナダのノーザンテレコム(ノーテル)を例外として、IP化の波に乗れず、輝かしい社史を閉じるに至っている。これら超名門企業がIP化の波に乗れなかったのには共通した理由がある。その理由を、再認識することこそ、激しいIT業界の変化の中で生き延びていくヒントを得ることではないだろうか。(次回に続く)

 

 

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第2回 IP化の波には気づいていたが、、、 May 19, 2022

 日本のN社や、F社、米国のルーセント、ドイツのジーメンス、フランスのアルカテル、これら世界の超一流通信機メーカーは、全て通信ネットワークのIP化の波に乗れず衰退した。 共通の理由の第一として考えられることは、これらの通信機メーカーは、NTTATT、ドイツテレコムやフランステレコムなど既存の電気通信事業者と表裏一体となって事業を行ってきた構造そのものが災いしたことであると思う。

日本を例に見よう。NTTは、5次にわたる5か年計画で、電話ネットワークを建設し、更にそのディジタル化を推し進めて高度化させた。戦後復興からいわゆる高度成長時代を経て、昭和60年代まで、大きな投資が続いた。その間、NTTのお抱え通信機メーカーとして、日電、富士通、沖などが、NTTと機器を共同開発し、独占的に納入したのである。常にNTTが先頭に立って技術開発をし、その技術を前提としたネットワーク設計を行い、建設計画を作成する。通信機メーカーは、共同開発という名のもとに新しい技術を入手して発注に応え、製品を製造し、納入するという体制が長年続いたのである。銀行経営の有名な護送船団方式は、大蔵省の指揮のもと、最も動きの遅い者に皆を合わせて進む方式だが、通信の世界は電電公社が通信機メーカーを引き連れて、直接、間接の指示のもと引っ張っていくという方式で、集団という点では同じかもしれないが、行動原理は真逆であった。そのエネルギーは、もっぱら独占の利益を源泉としていたと言えよう。 

米国の軍需技術を起源とするIP技術、そしてIPネットワークは、まるでがん細胞が周囲の細胞に侵食するがごとく、日本にも入ってきて一部の研究者や大学などから利用が始まった。しかし、NTTやそのグループ企業にとっては、預かり存ぜぬ別次元の世界でのネットワークの形成である。

通信メーカーの技術者や経営者は、この新しい技術やネットワークについて無知であったとは考えられない。だが、当初、この技術が情報革命を起こし、既存のネットワークに置き換わってしまうと予想した者はいなかったのではないだろうか。後になって経営者が大変なことになると気づいたときは、すでに時遅かりしであったのである。

Text Box:

しかし、大変なことになると本当に早い段階で気づけなかったのか? 

インターネットの存在自身は、研究者や技術者の間で早くから知られていたと思う。私でさえ、通信の自由化の準備段階(1980年初め)において、既にその存在を雑誌などで知っていた。冒頭 F社会長の嘆きから、20年近くも前である。ましてや新しい技術を追っている専門家は、ARPANETと呼ばれていたころ(1960年代)からフォローしていたに違いない。インターネットの初期段階では、その将来の予測も難しかったかもしれない。だが、インターネット・プロトコル (TCP/IP) が標準化され、1980年代末、民間にもネットが開放され、営利目的のインターネットサービスプロバイダ (ISP) が出現しはじめた頃には、ほぼ現在の姿の原型が出来上がったから、その時点で、本気で立ち向かっていれば将来が予想できたはずである。

ちなみに郵政省で初めてインターネットとWWWを導入したのは、1994年に開催されたITUの京都全権会議の直前である。当会議の議長をするため海外出張を重ねていた私は、日本との連絡に初歩的だったPCメールを使用していたので、更に進化したインターネットメールが使えなければ、世界各国から代表が参加する会議の開催はスムーズに行えないと思い、郵政省にも導入をお願いした。残念ながら、私自身はその時点では、まだWWWを使用したこともなく、ただ、メールの便利さを享受していたに過ぎず、将来の予想が十分にはできていなかった。 

既存の通信業界の中では、当然、技術的な可能性や米国で使われている様子を知っている人はいただろうが、それは少数であり、また、将来大発展すると予想をしていた人はいなかったかも知れない。たとえいたとしても、ごく少数、しかもその人たちが声を上げても、聴く耳を持っている人が周囲にはいないという状況ではなかっただろうか。郵政省が省内の通信システムを導入するにあたっては、関係の深いNTTやその関連会社にお願いするのが普通であるが、通信の専門企業とはいいがたい野村総研が、郵政省内のインターネット利用のシステムプランを構築し、サービスを開始したことだけでも、通信関連企業が蚊帳の外にあったことを裏付けていると思う。

このようなことだから、従来の通信業界以外の企業がインターネット関連のサービスを開始するような状況までになっていても、通信業界では少数の者しか関心を持たないまま、旧来の電話関連事業を踏襲してずるずると経過し、冒頭の会長の嘆きに至ったと思える。

だが、日本の通信業界はそれほど単純低レベルでもない。技術面では、インターネットと同じ構造のネットワークサービス、すなわちパケット網の通信サービス(パケット通信サービス)をNTTは早い段階から開発・提供していた。また、サービス面では、キャプテンと呼ばれる電話回線を利用して、誰でもが情報提供サービスを行うことができ、誰でもがアクセスすることができるシステムも、多くの企業が参加して試行されていた。今から考えると極めて初歩的な技術レベルではあったが、現在のインターネットと機能的には全く同じものを構想し、すでにサービスを行っていたのである。インターネットの普及よりは何年も前から、情報化社会を構想し、その構想を実現すべきサービスを開発し、試行錯誤を行っていたのである。残念ながら様々な理由から、それらは普及発展しなかったのだ。 

さて、インターネットの重要性に気が付いていた者がおり、また、インターネットと同じようなサービスをトライしていたにもかかわらず、なぜ、企業全体としてはインターネットに経営の舵を切れなかったのか? 

私は、次のような理由があると考える。

l  NTTが動かない

l  未来を予測でき感性の良い人は少ない

l  新し分野の人材がいない

l  既に、強い競争相手がいる

l  高い特許料を払う必要がある

l  コストが高すぎて成り立たない

l  速い決断ができない

l  体制(生産、営業、経営管理)を変更できない

(次回に続く)

  

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第3回 なぜインターネットに舵を切れなかったのか? @ 

大学を出て東芝に就職した時、本社は日比谷電電ビルにあった。その時、先輩から聞かされた話は電電公社と通信機メーカーの関係を雄弁に物語っている。「戦前、東芝は軍を優先して逓信省をないがしろにした。逓信省は困って、弱小だった日電に頼った。戦後、軍が消滅し、受注先を失った東芝が、電話ネットワーク建設に国内で最大の建設投資をしていた電電公社と取引をしようともくろんだが、どうしても果たせなかった。少し話が進むと公社の担当者の人事異動が起き、話はこと切れる。本社を電電公社の本社ビルに間借りしたのも、少しでも公社に近づくためだったが、意味がなかった。こうして、日電などいわゆるファミリー企業は公社の潤沢な発注により世界一流通信機メーカーに成長したが、東芝の通信機部門は成長できなかった。」とのことである。

 電話交換機は、ステップ・バイ・ステップの機械式から、クロスバー方式、さらに電子交換機へと技術革新した。伝送路は、銅線からマイクロウエーブ、同軸ケーブル、光ファイバーへ、また、回路は真空管からICLSI、超LSIへと激しい技術革新があった。これらの技術開発は、電電公社とファミリー企業との共同開発という形をとったが、先端部分は公社の通信研究所が担った。そこには、独占事業で得られる豊富な資金がつぎ込まれた。開発された製品は、公社が大量に買い取ることが約束されているから、メーカーは公社の意向に沿って行動さえすれば事業の成功は約束されていたのである。

 大型電子計算機の開発で唯一日本がIBMに対抗することができた理由は、巷では通産省による超LSIの開発や大型電子計算機の開発プロジェクトが成功したからだとされている。当時の金で数百億円の政府資金が投入され、開発のための組合が結成されたことは確かである。しかし、それはごく表面のことであり、実際は、電電公社とファミリー企業による電子交換機の開発により、日本の電算機技術が発展したことはあまり語られない。

 電子交換機は、大型電子計算機そのものである。公社の多額の資金と人材を投入してD10という交換機が開発され、大量に導入された。また、DIPS-11 というD10の電子計算機バージョンを、公社は実際に公衆型の計算サービスに使用していた。これら公社とグループ企業で開発された製品を公社が購入したからこそ、日本メーカーは規模で何十倍もの差があったIBMに対抗できたのである。

 大型計算機の開発は東芝なども行っていたが、ファミリー企業であるNECや富士通には、到底太刀打ちできるものではなかった。東芝の場合は、GEの技術を導入したが、GEそのものさえもIBMに敵わず、コンピューター開発から撤退した。
 公社(後にNTT)とファミリー企業との関係はこのようなものであるから、NTTIP機器の開発を手がけなければ、ファミリー企業が自らの意思でこの分野に投資することは、簡単ではなかったことが容易に予想できる。

 それではなぜNTTIP化が遅れたのか? いろいろな理由が考えられるが、一番大きいものはネットワーク建設のタイミングではないかと思う。大容量マイクロ波中継方式や大容量同軸ケーブル、電子交換機が次々に実用化されていき、それらの最新技術を活用して公社の2大目標であった積滞解消と即時通話化が、1978年に実現し、日本の電話ネットワークが完成した。もちろんその後の新規需要に応えるため、技術改良やディジタル化などをしながらネットワークの増強を図るため毎年ハイペースの追加投資がおこなわれたが、基本的には建設されたインフラを数十年間維持して償却をすることが電話会社の業務となる。そして、設備施設の償却後は、全く新しいシステムを建設することも可能となるのである。

I TU事務総局長に就任して間もなく開催された1999年のITUの「テレコム」(大展示イベント)は、もっぱら3Gの携帯電話の新技術が注目されたが、交換分野ではIP技術、伝送では光ファイバーの高度化であった。これを見たシリアの通信大臣は、シリアの電話ネットワークの新規投資はすべてIP技術にすると決定したという。まだネットワークが完成してないシリアでは、それが可能だったが、減価償却が終わってない日本では、その時点でのIP化は無理だったのだろう。

 IP技術の基本的な理念もNTTIPに舵を切るのが遅れた大きな原因ではないかと思う。電話ネットワークは、必ず繋がることを基本理念として技術開発や設計が行われる。一方、IPは、安価で便利だが、品質を保証するものではない「ベストエフォート」を基本とする。このベストエフォートを、電話の世界で受け入れるのには革命的な発想の転換を要するのではないだろうか? 2005年頃に、NTTよりNGNなるものが提案された。その概念は必ずしも明確ではなかったが、一言でいうと品質保証のあるIPネットワークというものではなかったかと思う。うがった見方をすれば、品質保証に命を懸けた電話技術者がIP技術を取り入れるための自己欺瞞ではないだろうか。 

 いくらNTTに依存したファミリーの通信機メーカーといえども、自主的に新規事業を起こすことは自由である。現に、どの企業とも家電など民生品分野に進出している。もし、近未来にIPが世の中を制することが事前に分かっていれば、新規分野としてIPに力を入れることもできたはずである。しかし、ため息をついた会長の会社はそれができなかった。社内には、IPの将来を予測できた人は、会長をはじめ、少なからずいたに違いない。しかし、会社の意思決定にいたるほどはいなかったのだろう。

 組織の意思決定は、一部の人が先を読めても、全体のムードがその方向に向かなければ、前例踏襲となりがちである。中には先を読める強いリーダーが社内の反対を押し切って驀進し、武勇伝として語り伝えられるラッキーな事例もあるが、残念ながら日本では例外的だ。

 私は、1980年代初めにシンガポールに出張する機会があった。現地の新聞を読むと、中国への投資額が、シンガポール、韓国、台湾、香港が日本をはるかに凌駕している記事があった。当然日本が圧倒的に多いと思っていたから驚いた。それから数年たった後、ようやく日本でもフォータイガーという言葉が盛んに聞かれるようになり、彼らの発展ぶりを認識するようになった。

 インドも同じである。1999年の「テレコム」の際、彼らのエネルギーに驚き、確かめるべくインドを公式訪問してその元気さに圧倒された。日本がインドに注目し始め、マスコミにもしばしば報道されるようになったのは、10年も後のことである。

 このように日本のマスコミ情報はあまりにも遅く、ピンボケである。しかしながらビジネスマンは日経新聞の情報をよりどころとし、その情報に基づいて社会の動向を認識し、企業の経営判断が行われる。グローバルな視点から見れば、少なくとも数年は世界から遅れているのである。

 ITUにおいてIP電話の合意がなされたとき、ジュネーブ在住の日刊紙の記者たちを招いてレクをした。「世界中の電話料金が均一になる革命的な合意だから、ぜひ大きく報道してほしい」と懇切丁寧に説明したが、「こんなものは、東京に取り上げてもらえない」との反応で、日経だけが小さく記事を書いた。それから数年後、日経新聞では毎日IP電話の記事が大きく出るようになり、日本で料金革命が起きた。裏ではシスコなどの海外製品のIP機器が使用されたのである。

 KDD(国際電信電話株式会社)は、無借金の超優良企業であった。トヨタをはじめ、異業種から携帯電話に新規参入があった当時、KDD内でも携帯電話への進出の企てがあったそうである。しかし、その考えは採用されなかった。ところが、IP電話の出現により、従来の国際電話は成り立たなくなり、IDO(日本移動通信株式会社)に吸収合併を余儀なくされた。事実上の消滅である。従来の国際電話がIP電話に置き換わってしまうことを経営陣が予測できていたなら、技術陣を新規参入業者に提供することなどせず、自らの携帯電話事業に回し、逆にIDOなどを吸収合併していただろう。

 経済がグローバル化した現代、ごく少数の先が読めた人の意見が、どれだけ尊重されるかが企業の命運を制する。これからのトップリーダーの資質として必要不可欠なものは、先の読めた少数の人の意見を謙虚に聴き、自ら確かめる能力ではないだろうか。(次回に続く)

 

 

 

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第4回 なぜインターネットに舵を切れなかったのか? A  August 16, 2022 

 F社には、会長をはじめ、未来を予測できる感性の良い人たちがたくさんいたに違いない。しかし、会社を新しい方向に転換することはできなかった。色々な理由が考えられる中で、日本社会全般に蔓延している「前例踏襲」、「横並び」、「減点主義」などと言われている風土が一番大きな理由ではないだろうか。要するに、リスクを取らなければならない意思決定を果断に行うことができないのである。この傾向は、経営トップから管理者、技術者に至るまで、伝統ある大企業、すなわち一流企業になればなるほど強いと思う。
 大学を出て東芝に就職したが、その時、立派な学歴で、かつ、素晴らしい能力を持っている先輩が浮かばれず、実力を発揮できないポストにくぎ付けされている例をいくつか見た。「あの人は、00プロジェクトで失敗したのだ。」というような噂を耳にした。一方、順調に出世している先輩たちは、個性がなく、調子よく上司の意向を受けて協調的な態度に始終し、新しいことはやらないというタイプだった。

 何十年か後に、トヨタに世話になって耳にしたことは、幹部たちが「自分は、00で失敗して工場のラインを止めた。」という経験談を、自慢気に話している姿であった。ラインを止めるということは、不良品の生産を防ぐために生産工程をストップさせることだから、会社に多大な損害を与える大事件である。新製品開発の小さなプロジェクトで成功せず、その後の会社人生が浮かばれない東芝と、大きな失敗でも許してもらえ、

 後に経営幹部になれるトヨタ。就職した当時、東芝は会長が経団連会長の超一流企業だったが、トヨタは工学部系統の友人しか興味を示さなかった田舎企業だった。

 日本の通信機メーカーは、売り上げをNTTに大きく依存していたとは言え、いずれも伝統ある超一流企業である。人材も豊富だ。研究開発費も潤沢だった。インターネットに関する技術も持っていた。しかし、失敗を恐れ、早い段階で会社をその方向へ進路変更するリスクは取れなかった。

 失敗を恐れないトヨタの社風だが、必ずしも猪突猛進ではない。なぜなら、トヨタには「決して一番手では走らない」という哲学があるとよく聞いたからである。他の自動車メーカーが車の先端技術の研究開発に取り組んで、実用化実験を行ったというニュースをよく耳にするが、実はトヨタもちゃんと研究開発をしているが積極的には宣伝をしない。そして、他社が実用化に成功し、儲かるということが分かった時点で、トヨタも製品を発売するそうである。儲からなければ研究開発も意味はないということだろうか?

 同じような経営哲学を通信分野でも経験した。ITUIMT2000という名称で呼ばれた3Gの標準化に成功した直後、日本と韓国が「Beyond IMT2000」と言って,4Gの研究開発で騒ぎだし、ITUも標準化作業を開始すべきだと主張していた時、欧州の携帯メーカーの幹部に面会を求められた。「やっと3Gで儲けることができるようになったのだから、今は4Gなどの開発に取り組むべきではない」という主張を伝えに来たのであった。

 日本では、経営者たちは世界の動向などには配慮せず、単にその日その日を、「前例踏襲」、「横並び」、「減点主義」で恙なく過ごしがちである。大した最新技術でもないのに、機能に奇をてらう方向に一斉に進んでしまい(ガラパゴス化)、世界市場から相手にされず、崩壊してしまった携帯電話生産(含むスマホ)が、経営者のこの姿を雄弁に物語っている。ひとえに「他社もやっているから」ということで、同じようなことをやり、世の中の変化に気づいても、リスクを取って社内体制を変更することができず、顔面の小さな失敗を避けて、大きな失敗をしてしまうのである。

 ところで、4Gの時代になって、どこが成功したのか? 当初、開発で先端を切っていた韓国勢が躍り出た。日本は、韓国と一緒になって騒いでいたのに、製品を出すのもおぼつかなかった。そして、間もなく中国勢、しかも起業後10年にも満たない新規参入組が破竹の勢いで延びてきた。シンプルで低価格な商品コンセプトで瞬く間に市場を席巻したのである。我々夫婦も、この安価なsim フリー中華スマホを何の不満もなく愛用している。何倍もする値段の日本製と称しているスマホを購入している人の気持ちが全く理解できない。今や5Gの時代、政府もいろいろ騒いでいるが、本当の需要はどこにあるのか?

 トヨタで見た「失敗を許すこと」と、「2番手で走ること」とは、相矛盾しているようにも思えるが、多くの企業では、「失敗を許さず」、「2番手、3番手で進む慎重さ」だけを要求しているのではないだろうか。このようなことが長く続いているので、近隣の中心国にさえも後れを取り、停滞の日本経済になってしまったと思う。 

 「2番手を走る」というトヨタの哲学は、実は「市場の動向を重視する」ということである。iPhoneが出現した時、多くの業界識者が、「ihone にある機能は、携帯電話にすべてある。新しいものではない。」とその後の発展を予想しなかった。技術的にはまさにその通りで、当時のスマホは決してガラパゴス携帯をしのぐほどの素晴らしいものではなかった。実は私もスマホを購入したのは、かなり後になってスマホの能力が大きくなってからである。しかし、iphone 発売後、直ぐに海外のアンドロイド・メーカーは、iphone の設計思想を模倣してアンドロイド・スマホに舵を切った。出遅れた日本メーカーの末路は惨めである。

 スマホと同様の発想の商品としては、古くはシャープのザウルス、そしてBlackBerryが有名である。愛用者はたくさんいたが爆発的には普及しなかった。なぜ、iphone が爆発的に普及したのか、いろいろな説があるだろうが、私は携帯電話が普及し、SMS等データーサービスやカメラ等付帯機能のある携帯電話に慣れた若者が多数出現した時点で、斬新なタッチパネルとデザインが若者を魅了したのだと思う。今でも、機能はアンドロイド・スマホより劣っていても、iphone のデザインの良さで、高価なiphone を選択する日本人は多い。一部の日本人は、今やスマホに機能を求めているのではなく、色や形などデザインの良さやブランドを求めているのである。

 機能がほとんど初期iphone と同じだったザウルスやBlackBerryは、技術的観点からは、普及して当然なのに、そうはならなかった。人間の行動は、理性的な発想だけでは理解できない面があるのだ。トヨタの2番点でよいという発想は、この市場で受け入れられるかどうかを見極めるということではないだろうか。

 日本の通信機メーカーの没落は、技術力の問題ではなく、この市場を見極める発想が皆無だったことも大きな原因であると思う。インターネットの技術は知っていた者はたくさんいた。しかし、その力、すなわち人々を魅了し、市場を席捲する力を理解はしていなかった。そして、その後、世の中がインターネット化するということに気づいた者はたくさんいた。しかし、会社の進むべき方向を変更するまでには至らなかった。トップが気付いたときは、既に手遅れで手が付けられない状況であったのである。

 現在、通信機器商品としては、唯一、NECのパソリンクが世界で頑張っている。これは開発途上国の携帯電話やスマホの急速な普及、特にスマホの普及によるネットワークの高速化の需要に、安価で容易に対応できる商品だったからである。パソリンクの成功は、市場の求めるものを開発販売すれば、韓国や中国に負けることはないということを雄弁に証明している。常に海外の技術発展の動向や市場の動向をいち早くキャッチし、売れる商品を開発するというスピリットがなければ、グローバル経済の今日、企業の生きる道はないと思う。

 状況は世界の超一流通信機メーカーであるルーセント、アルカテルやジーメンスでも全く同じであった。しかし、カナダのノーザンテレコムだけはインターネット化の波に乗ることができた稀有の例だと思う。いち早く市場の変化に対応し、1990年代末にIPネットワーク機器メーカーへのシフトを加速させ、社名も「ノーザンテレコム」から「ノーテル」に変更までした。そして売上規模が急拡大し、2000年にはルーセントを抜いて売上高で世界最大の通信機目メーカーとなり、カナダの全上場企業時価総額の1/3を占めるまでになった。

 しかし、2001年のITバブル崩壊とともに経営が悪化し、2008年の世界金融危機がさらに追い打ちをかけ、また、中国からのハッキングで技術情報が盗まれたことも一因だと言われているが、2009年に経営破綻した。このように、既存の事業とは異なる新しい動きに乗り換えることは至難の業であるが、たとえ波に乗れても、ノーテルのように激しい波の動きについて行けず沈没してしまうことさえある。

  次回は、日本企業がいかに市場の動向をキャッチすることに無関心であり、ビジネス・チャンスを逃がしていたか、ITUの場から見た経験を挙げよう。

 

 

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第5回 チャンスを掴み取ろうとしない日本企業  September 15, 2022

 ITU事務総長選挙に立候補した時、ケニア出身のITU事務次長チャシア氏とインドネシアの公社総裁のパラパック氏が対立候補であった。日本の見方は、先進国は先進国出身の内海を支持、また、アジア諸国も日本を支持、一方、チャシア氏は、アフリカ諸国や開発途上国、それに英連邦が支持。パラパック氏は、ムスリム諸国から広く支持を得るだろう。したがって、内海は、中南米諸国の票がカギだということであった。しかし、この予想は、大きく間違っていた。

 まず、アジア諸国は一般的に日本国に反感を抱いており、日本国出身者を支持しないのが現実だった。欧米先進国は、「日本出身者がITU事務総局長になると日本の通信関連産業が有利に取り計らわれて、ますます日本が強くなる」ということを公言して反対に回る国が多かった。結局、アフリカ諸国やアラブ、中南米を中心とした支持で当選することができた。

 この予想に反した米国を中心とした反応は、日本と欧米との関係や、国民性を如実に物語っていると思う。そもそも国際機関のトップに立候補するのは何のためか? 「自国に有利にさせるためのものである。」という考えが、欧米の考え方だろう。一方、日本人は、国際平和や国際協力、せいぜい日本のプレゼンス向上のためという、きれいごとを言ってきた。

 当選して、一番に飛んで来たのが米国の高官であった。「3Gは、世界中がITU標準を使用すべきだ。そのように説いて回れ」と圧力をかけてきたのだった。この10年前、自由化を巡る日米電気通信交渉で米国は、「通信機器はITU規格を条件にしてはならない。人体に危害を加えないという条件で必要充分だ」と主張し、そのような技術基準を日本に押し付けた。もちろん、日本が主張した、ITU規格に従い、どこの国とも通信が容易にできるようにするのが正論である。

 この機に及んで米国が、当選したばかりの事務総局長に正論を告げに来たのは、大きな        訳がある。既存電波が枯渇していて、ユーザー数を増やせられない日本のNTTドコモは、3G用の電波を一刻も早く使用してサービスを拡大し、ユーザーを増や必要があった。 一方、3Gの世界標準化の合意はまだできていない。開発が遅れていた米国企業は、もし日本に先行発車されると日本企業が世界を席巻し、窮地に立つという危機感があった。米国企業は、標準化の合意を口実に日本の先走りを抑えたかったのである。そして米政府高官をよこした。

 私がITUの標準化作業を促進すべく動き出すと、欧州の企業は説明にやってきたが、日本企業や政府からは戦略を教えてもらうことはなかった。たとえ聞かせてもらえていたとしても、当時の初心な私なら、世界の人たちの利便のため、ITUの標準化作業を速め、世界中が同じ規格で通信ができるようにすべきという考えは一歩も変わらなかったと思う。

 しかし、多少、世の中を見てきた今なら、日本が独自規格、あるいはヨーロッパとの連合規格で先行発車し、世界を席巻して世界規格とする(de fact 標準)という方法の実現可能性や、損得を真剣に検討したと思う。そして、ITUの役割や自分の立場とのはざまで悩んだかもしれない。しかし、当時の日本で、独自規格で走るというオプションを検討しただろうか? ましてや、日本出身のITU事務総局長を活用することなど考えた人はいただろうか?

 実のところ、米国が恐れたのは日欧の連合規格ができて先行発車されることだったと思う。結果としては、ITU標準規格ができたが、それは、日米欧の混合規格であるから日欧は米国企業に多額の基本特許料を払うということになり、米国の利益は確保された。しかし、熾烈な駆け引きをした日米欧の開発企業のその後は好ましいとは言えない。その標準化規格を活用した韓国勢が世界を制した。その韓国勢も、今は中国にやられている。

 20年近く後になって、3Gの標準化が問題であった当時のNTTドコモのトップだった人から、「2Gは日本独自規格だったから世界で売れなかったというので、3Gは世界標準に従った。 だのに、なぜ負けたのだ?」という発言を聴いたことがある。

 当時、「ノキアやエリクソンが世界を制覇したのは、技術力ではなく、GSMというヨーロッパ規格のおかげだ。日本が独自規格を取ったから負けた」という意見が世の中を占めていた。そして、その反省によって世界標準を取った3Gだが、日本以外では売れなかった。それは日本の携帯がガラパゴス化したからだと言われ、そのガラパゴス化という言葉も陳腐になってきていた時期である。世界標準に(いやいや)従ったドコモ・トップには、忸怩(じく)たる思いが消えないのだろうか?

 日本の携帯電話がなぜ世界で売れず、日本の電子産業が凋落したか、いろいろな理由が挙げられている。独自規格、ガラパゴス化、円高、ディジタル化による組み立ての容易化、安い人件費の韓国、中国の進出等々である。これら巷で関係者が唱えたもっともらしい理由は、どれも根本的な原因ではなく、単なる言い訳に過ぎないと思う。根本的な原因は機会の逸失である。横並びや前例などにこだわり、リスクを取らず、大きなチャンスを逃がしてしまったことに原因があると思う。詳細は後述したいが、そのように考えるに至った背景として、まずITUで見た日本企業の機会逸失の諸例を挙げてみよう。 

 ITUでは、通信のオリンピックと呼ばれた大展示会を4年ごとにジュネーブで開催していた。世界の通信関連企業がパビリオンを構え、各国の大臣クラスが参加して、展示各社の最新技術の紹介や商談、顧客の接待などが行われる。(99年に開催されたテレコムに参加したシリアの大臣がネットワークのIP化を決意したのは第3回に記述) ITUは、ジュネーブで大盛況のこのイベントを開発途上国に広めようと、毎年、アジア、南アメリカ、アフリカと順番に地域イベントを開催していった。

 南アのヨハネスブルグで開催したアフリカ・テレコム(2001年)は、アフリカ中の大臣が参加し、極めて盛大に開催され、宗主国であった欧州の企業などは、レセプションなどでプレゼンスを示し、企業宣伝に努めた。なかでも韓国・中国企業の参加が目立った。ところが、日本企業が一社も参加せず、日本人は一人も来なかった。アフリカ・テレコムに参加しないということは、世界の電気通信関連産界では日本企業はこの地域では事業を行わないと公に意思表示するに等しい。

 ある中国企業のブースでは、アフリカでの実績を展示していたが、数はまだ数例しかなかったがその企業の商品によるIPネットワークの建設だった。私は、早くもアフリカでIPネットワークの建設を始めたのかと感心すると同時に、日本企業の動きが気になった。

 日本に帰国した際、某大手の通信機メーカーの社長にどうしてアフリカ・テレコムに参加しなかったのか尋ねると、「あんなところに売るような商品は生産してない」と取り付く島がなかった。後で専門家などに聞いてみると、「日本では高品質の商品を作っているので、アフリカで売れるような安物は生産できない。しかも売れる規模も小さいから商売にはならない」とのことであった。

 確かにメーカーの言には理あり、詳細を知らない部外者が口を挟むような問題ではない。だが、膨大な人口を抱え、まさに情報通信革命が起き始め、まだ特定の国が支配してないないアフリカ市場を相手にしなければ、どこで商売ができるのだろうか? その後、ITUが開催した世界情報社会サミットによって情報化に目覚めたアフリカの首脳を相手に、中国はODAを梃子としながらアフリカ全土に膨大な通信インフラ投資に関与した。その結果、現在では日本がアフリカ市場に手を出すことは事実上不可能となっている。

 最近になってテレビで、アフリカの外務大臣を呼び日本政府によるTICAD(アフリカ開発会議)を開催して、アフリカへの投資や援助を表明したなどと、毎年報道されるが、真にむなしい限りである。

 ITUの任期が終了した後、10年間JTEC(財団法人通信放送コンサルティングサービス)の理事長をして、更に具体的なケースでアフリカの実態を知った。

 アンゴラは石油などを産してアフリカとしては比較的に恵まれている国である。中国のODAで光ファイバーの基幹網を建設したが、中国企業の工事等が信用ならないと、JTECと施工管理のコンサルタント契約を結んだ。かつてJTECが行ったサービスが信用できると、JTECが頼まれたのである。JTECの専門家の話だと、「中国企業のケーブルの埋設は杜撰で、すぐ露出し、故障して使い物にならない。いちいち細かく指導・監督しなければ使えるものにはならない」とのこと。しかし、いくら日本人が信頼されても、ODAなどと絡ませなければ、ごくわずかなコンサルタント料ぐらいしか日本にはビジネス・チャンスがない。しかもこのコンサルタント料も、もとは中国のODAのおこぼれであるに違いない。

 今世紀末には人口の6割がアフリカ人になるそうだが、通信分野におけるアフリカ・ビジネスの失敗は、なんといっても大きな潜在市場を短期的にしか見ず、バカにして相手にしなかったことである。一人もアフリカ・テレコムに来ない日本人の横並び意識で、世界の動向を知るチャンスさえも失い、10年ぐらい遅れて気が付いて少し手を打っても、取り返しは効かない。

 ヨーロッパの地デジ化のビジネス・チャンスに見向きもしなかった家電業界

 ITUでは、世界を3地域に分割してテレビ放送の電波を割り当てている。日本はアジア地域に属し、ITUから割り当たられた電波帯から、チャンネルを選んで政府が個別に放送事業者に免許を与える。実は、正確に言うと、ITUが電波帯を割り当てるのではなく、各国が集まって電波帯の割り当ての合意(条約)を作成するのである。この条約制定会議をWRC (World Radio Conference)と呼ぶ。

 ヨーロパ、アフリカ、中東地域は、一つの地域を構成していて、このWRCで合意された電波帯のうち、どの国の、どの都市に、どのチャンネルを割り当てるかITURRC (Regional Radio Conference)で、詳細に合意する。各国はその合意に従って放送局を免許する仕組みである。ヨーロッパは多数の国が存在し、人口が密集しているため、各国で自由にチャンネル分配を行うと混信してテレビ放送が成り立たなくなるためである。

 テレビ放送のディジタル化に応じて、ヨーロッパ・アフリカ等の地デジ放送の割り当てのためにRRC2004年と2006年に開催された。上記の通り、ここでは、定められた放送方式に従って、どの都市に、どのチャンネルを分配するか決められ、近い将来のヨーロッパのディジタルテレビ放送の姿が決定される。しかし、その会議にオブザーバー出席して情報を得ようとした日本人は皆無であった。一方韓国企業は積極的に職員を派遣して情報の収集を行っていた。

 日本で地デジが開始されたのは、2003年であり、世界でも先頭を走っていた。その時、地デジ用のテレビ受信機が多いに売れて家電業界が活況づき、大きな利益を上げた。家電業界だけではなく放送設備メーカーも多いに儲かったのである。総務省は、誇らしげに地デジ効果、何兆円と発表を繰り返していた。日本市場でのこのような成功体験がありながら、その後に起きた何倍もあるヨーロッパ市場でのビジネス・チャンスに見向きもしなかった日本企業の姿勢は全く理解できない。日本に帰国した際に関係者に注意喚起したが、皆、自分のことではないと、知らぬ顔であった。

 ソ連時代に、ソ連、東欧を視察したことがあるが、共産党支配下でも日系家電メーカーの大きな看板が街のあちこちに掲げられ誇らしく思った。当時、家電メーカーは世界で商売をしていたが、それから10数年後、ヨーロッパの地デジ化ビジネスの大きなチャンスにどうして積極的にならなかったのか? ヨーロッパ市場では、大型のブラウン管テレビから大型の液晶パネルの地デジ用テレビが爆発的に売れた。そして売り場は韓国メーカーの商品ばかりとなった。日本企業は、日本市場でのみ地デジ需要を享受し満足したが、韓国企業は世界市場で何倍もの利益を享受し続けているのである。その後日本では、規模の利益で劣り、韓国等海外メーカーの進出などを受け、テレビ生産を止める家電メーカーが続出している。

 ヨーロッパ各国の地デジ化が進み、次は開発途上国の時代になったとき、不思議なことが起きた。日本の地デジ方式を世界に広めるのだと政府が躍起になって働いたのである。地デジの方式は、すでに前述のRRCで決定されていて、その方式(ヨーロッパ方式)に従ってチャンネル分配が行われている。よほどの変わり者でない限りこの地域で日本方式を採用することはできないのである。それでも政府は強力に働きかけ、アフリカのある国が日本方式を採用した。しかし、割り当てられている電波は日本とは異なる周波数だから、日本のテレビ受信機は使えない。その国の政府は、受信できるテレビ受信機が世界に存在しないことを知る。その国は、日本に泣きついたが、メーカーも特別な受信機を少量生産しても割に合わない。政府の口車に乗って日本方式の採用を薦めたメーカーは、とんだ損失を食らった訳である。

 なぜヨーロパ、あるいは後に起きる中東、アフリカ諸国での地デジ化で、大きなビジネス・チャンスをつかもうとはしなかったのか? 

 考えられることは、RRCで、すべてが決定されるということを知らない政府や企業である。総務省も、WRCには関心が深く、準備作業をフォローし、数十人の大代表団を送り込む。しかし、他の地域の問題であるRRCは、誰もフォローしていないのではないか。

 ヨーロッパに駐在員を持っていたメーカーは、現地スタッフや現地政府から数年にわたって準備がなされ、2度にわたって開催されたRRCのことは、少しは知っていただろう。しかし、他のメーカーが動かなければ、わが社も動く必要はないという横並び意識が働いたのではないだろうか。

 もし、総務省から「RRCにオブザーバーを派遣してフォローし、ビジネス・チャンスをつかもう」と一声あったなら、ITU事務局は日本からの多数のオブザーバーに席を用意出来なくて、入場制限をかけざるを得なかったと思われる。

 他社がやれば、自分もやる。他社がやらなければ自分もやらない。政府が声をかければ、不合理なことでもやる。声をかけなければ、大きなビジネス・チャンスでもつかもうとしない。これが、一流日本企業に蔓延している行動パターンだと思う。要するに、政府も企業も口では国際化などと言っていても、もはや日本全体がリスクの大きい海外のマーケットに関心がないのである。自分の安全が第一なのだ。アフリカの奥地まで日本の商社の人が入っていたかつての時代が懐かしい。

(以下次回に続く) 

 

 

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第6回 日本政府の対応はどうだったのか  October 11, 2022

 前回、アフリカ・テレコムに日本企業が一社も参加しなかったことを挙げたが、もし、日本政府が音頭を取れば、渋々ながらも日本企業は参加したと考えられる。なぜなら、従来から日本は、ITUテレコムに関して郵政省が中心となってテーマや規模を調整し、また、要人の訪問団も結成していたからである。参加企業共通の「日本パビリオン」を建設、大手企業は、さらに独自のパビリオンやスタンドを建設して、世界でも最大の規模で参加していた。一社も参加しなかったことは、関係企業や政府が調整して、そのような申し合わせをしたのだろう。

 同じことが、ヨーロッパ地域の地デジを割り当てたRRCへの参加についても言える。世界全体の電波割り当てを行う世界無線会議(WRC)へは、日本政府が米国に次ぐ大代表団を結成して代表を送り込む。企業の関係者は、政府参与として人事発令をして政府の一員という資格を与えるのである。政府レベルの条約制定会議であるWRCRRCは、政府が動かない限り民間の参加はむつかしい。

 ITUが作った大きなビジネス・チャンスに日本企業の参加が見られなかったのは、企業も政府も関心がなく、音頭を取る者がいなかった、そして、参加しないことを暗黙裡に確認しあい、抜け駆けをしないようにしたとしか言いようがない。ここで注目すべきことは、アフリカ・テレコムやRRCはいずれも、従来からジュネーブで開催されてきた世界テレコムや世界全体の電波割り当てを行う通常のWRCとは異なる新しいイベントや会議だったということである。何十年も続いてきた行事には、何の疑問もはさまずに国を挙げて積極的に参加しても、新しいものには手を出さないのである。

 この保守的で、リスクは全くとらないという姿勢は、日本全体、いたるところで見られるが、特に政府関係では顕著である。その姿勢は、企業のビジネス活動にも大きく影響していると思う。アルジェリアで経験したことを挙げよう。

 北アフリカの票を獲得すべくモロッコ、チュニジア、エジプトを訪問して、好反応を得た。アルジェリアは、ITU活動に積極的だった国なので、是非訪問して票を固めたかった。訪問を計画したが、日本の現地大使館に2度にわたり、「治安が悪いから来るな」と断られ、果たせなかった。

 当選後、アルジェリア政府(通信省)から10年ぶりに開催する会議への参加を要請された。アルカイダによるNYツインタワー爆破の2週間後で、国連機関、政府、民間すべてが海外出張を控えている最悪の時期だった。私は、約束通り、他に搭乗者がいない飛行機でアルジェへ行った。アルジェリア政府は大変喜び、昼食会や晩さん会を開催して大歓迎をしてくれた。アルジェリア政府によると「日本大使館は無礼だ。昼食会に招待したところ招待状がないといって断られ、それならと夕食会に招待状を持参した。ところが返事もよこさない。長年、日本のN社を入れていたが、もう止める。」とかんかんに怒っていた。おそらく、テロを恐れて不要不急の外出を控えていたのだろう。

 3年後、再度アルジェリアを訪問する機会があり、総理大臣にお会いして再選のお願いをしたところ、即答で快諾を得た。

 その数年後の2013年、アルジェリア人質事件が起き、日揮の職員10名が犠牲となる痛ましいことが起きた。日揮もアルジェリアのようなリスクの高い国の事業に参加しなければこのような悲劇も起きなかっただろう。しかし、犠牲になったのは、フランス、イギリス、米国、アイルランド等の方々もいて、日本人だけではない。

 思い起こされるのは、アフガン政府の崩壊の際、日本大使館員は、在留邦人や現地雇用職員を放置して、いの一番で逃避したこと、また、ウクライナでも、日本が一番遅く大使館の再開をしたことなど、各国と比較して際立って安全が最重点となり、いろいろなチャンスを逃がしていることである。もちろん人命は何よりも大事だが、リスクをゼロにすれば、国際競争には絶対に勝てないだろう。

 2008年、総務省に「情報通信国際戦略局」が設置された。役所の部局の名称で「戦略」がつくのは異例である。菅総務大臣の強い指示で、国の組織をつかさどる担当局も例外を認めざるを得なかったらしい。しかし、この戦略局の設置は、日本企業の地盤沈下が急速に進み、何とかしなければ大変なことになることが認識され始めたその時、最も時宜を得たすばらし政治家の判断だったと思う。だが、「仏作っても魂入らず」の感が無きにしも非ずである。

 同じころ、総務省の日本の携帯電話を海外に普及させる方策を検討する委員会に呼ばれて意見を述べさせられる機会があった。違和感があったのは、委員たちがみな携帯電話を製造している日本企業の人ばかりであったことである。海外の事情を知らないものがいくら議論しても本当の解答は出ないだろうと思った。会議が終了したとき、海外企業との合弁を作っているS社の専門委員が近寄り、「海外の状況をいくら話しても全然聞いてくれない」と嘆いた。なぜ、海外の市場に詳しい人たち、また、売るほうだけではなく買う側の人も選ばないのか。どうも委員会の議論は、「円高で売れない。人件費が高くてコスト高。安物は作っても利益は上がらない。」などの巷にあふれている言い訳と、日本製技術に基づいた4Gの標準化の推進などに始終したようである。

 今から翻ると、ちょうどiPhone が出現し、アンドロイド・スマホが追従し始めた時期だったから、魅力的なスマホを設計し、中国や台湾の工場で生産させる体制を組むことが、日本企業が生き延びる道だったように思う。本来なら、多数のメーカーが乱立している状況を整理して規模の利益を確保すること、ユーザーが望むスマホを設計できる多彩な人材育成すること、既存工場を閉鎖して生産は中国などの企業に任せる抜本的なコストダウン方策の道を探ることなどの戦略を樹立し、業界や国は何ができるか、一言でいえば産業の構造改革を議論すべきだったと思う。後付けの理屈だといわれるかもしれないが、当時から世界を見ている者にとってはある程度はわかっていたことであった。ただ誰も公には言い出さなかったし、現実を冷静に見ようとしなかっただけのことであると思う。

 海外戦戦略といえば「日本技術による世界標準化」という考えは、前述の異様な日本地デジ規格の海外普及の働きかけにも見られるように、日本製技術で標準化できれば世界を征することができた1980年代のファックスの成功体験が起因していると思う。ファックスはITUで日本が中心となってG3と呼ばれ国際標準化が行われた。そして、一気に世界中に普及し、日本企業が世界を征した。

 しかし、標準化は、技術の進歩でデジュール(ITUなどの会議で仕様を決定して標準化する)の時代からデファクト(事実上市場を征したものが世界標準となる)の時代に変わった。政府が音頭を取る標準化の時代は終わった。いちはやく市場で人気を得たものが勝つ時代になっているのである。ユーザーが欲しいと思う製品を作らない限りは、どんな高級な技術を使っても、あるいは政府が全力で応援しても、その技術が世界標準になることはもうない。

 グローバル時代に、日本が世界に伍して生きていくためには、政府の職員も、企業の職員も、視野を広くして、このような世界の新しい流れを知ることに尽きると思う。 

ビジネスの世界ではないが、安倍元総理の国葬についても、いかに視野を広くすることが大事か岸田首相は思い知ったと思う。永田町界隈では安倍氏は歴史上最長の政権を維持した超偉大な人物、そして海外からの弔問のメッセージも生半可ではなかった。それだけを見ていれば当然国葬に値するだろう。しかし、少し視野を広げると、また別の景色が見える。

 安倍氏は政権にいた8年間に一体何をしたのか? 国民から惜しまれながら辞めたのか、それとも辞職が喜ばれたのか? 海外からのメッセージは国際儀礼の範囲か、それとも安倍氏に特有のものだったのか? 日本国の国際的地位はどの程度か? これらのことが視野に入っていれば岸田首相も異なる判断をしていたに違いないと思う。

 ビジネスも同じではないか。日本全体が、自分の身の回りしか見ていないことが多く、また、たとえ広く世界を見ていても周りのものと同調した行動しかとろうとしない。これでは、社会の安定はあっても進歩はない。どの分野でも、いかに視野を広げて、他のものが気づいてないことをいち早く知り、他のものより優れた判断をするかが求められているのだと思う。コロナ・ウイールスよりも日本に蔓延している「付和雷同ウイールス」がよほど国を亡ぼすのではないかと思う。

 

 

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第7回 Tシャツ戦術で交渉を有利に働かせたエリクソン  December 1, 2022

 様々な職場や異文化を経験すると、なるほどと見習うべき慣習やアイディアがいっぱいある。それらは、日本の慣れた環境の中では気が付きにくいものだ。思いつくままにいくつか挙げてみよう。

Gの標準化作業が大詰めに差し掛かっていた1999年3月、ブラジルのフォートレザという観光地でITUの標準化グループの会合が行われた。当時は、IMT-2000という名称で呼ばれていた。背景の理解のため、少し長いが拙著「国連という錯覚」から、この会合の部分を引用させていただく。 

第3節 第三世代携帯電話

 就任したばかりの私のところへ一番に、ワシントンから米国国務省の電気通信担当大使マッカーン女史が飛んできた。

 「ウツミさん、事務総局長のご就任おめでとう。

 ところで今第三世代の携帯電話の標準化が問題になっているが、これは、各国ともITUで決められた標準化にしたがってサービスを行い、世界中で共通に使えるようにしなければならなりません。しかるに日欧は、ITUでの標準化の合意の前に独自のプロトコールでサービスを先行開始しょうとしている。そんなことになると全世界で使えるという第三世代の携帯電話の理想が壊れてしまう。ITU事務総局長として、日本や欧州に、ITUで標準化された方式を使うよう働きかけて欲しい」

 ITUでは、ちょうどその時、第三世代の携帯電話の標準化作業が最終段階に差し掛かっていた。日米欧が、それぞれ自国で開発した技術を世界標準にしょうとしのぎを削っていた。米国は、日欧が協調して早くサービスを開始しょうとしていたのに対して、別の方式を検討していた。そこで、日欧が有利になることを恐れて、ITUの標準化プロセスで時間を稼ぐと同時に、自国開発の技術をITU標準に採用させようとしたのであった。

 ちょうど10年前の1980年代、MOSS協議と呼ばれた日米通商交渉の過程で、私は電気通信の自由化に関する交渉に携わった。交渉途中で、通信機器の「プロトコール」は、ITUの国際標準に従わなければならないという日本側の省令案に対して、米国が、総て自由にすべきだと主張した。

 日本は、アメリカの了解を得ることが出来ず、通信自由化法案の実施が延期された。米国は、ITUの国際標準を盾に日本が米国製の電気通信機器を締め出す恐れがあると考えたのである。

 小山守也郵政事務次官に同行して私は、ワシントンに飛び、アメリカと交渉を継続した。ワシントンでは、国務省、商務省、FCC(連邦通信委員会)などの関係省庁の代表十数人と一堂に会して交渉した。皆が、「プロトコールが問題だ。完全に自由化しろ。」との一斉合奏であった。

 私は、「ITUの国際標準に従うのが世界の常識でありどこが悪い」と反論したが、相手はなかなか承知をしない。

 しかし、あるコーヒー・ブレイクの間に、仲良くなった国務省の代表が、こっそりと私に擦り寄ってきた。

 「ミスター・ウツミ。問題になっている『プロトコール』とは、一体なんのことですか?」

 これには、さすがの私も呆れてしまった。電気通信技術者の間で「プロトコール」とは、通信のやり方に関する技術的な約束ごと(技術標準)を指すが、外交用語では、「儀典」のことを意味する。したがって、国務省の役人には、まるで何の話か分からなかったらしい。ちなみに、通信機器が、ITUの世界標準に従うのは常識であり、もし別のものを使えば、お互いに通信ができなくなる。

 一番になって反対していた、このアメリカの代表は、中身が分からずに、ただ「完全自由化」と言っていただけのことである。この代表以外にも、アメリカ側で、本当に中身が分かっていた者は、ほとんどいなかったのではなかろうか。

 我々は、決裂のまま帰国したが、特別専用機で先回りして日本へ来たブッシュ大統領の特別顧問と米国通商代表部の幹部は、中曽根総理と直接交渉をし、日米両国は、アメリカ側の要求を全てのんで政治決着をしたのであった。 

 それから、10数年後、日米欧が第三世代の携帯電話の国際標準化でしのぎを削っていた時、ITUの事務総局長に就任したばかりの私に、米国政府高官は、わざわざジュネーブまで飛んできて、「第三世代の携帯電話のプロトコールは、ITUで標準化しなければならない。日欧に働きかけろ。」と、まさに、10数年前、日本が米国に「ITU標準に従うべし」と主張していたこととまったく同じことを注文してきたのだ。 

 郵政省から、私のサポートに来ていた小林課長は、かつてITUで第三世代の携帯電話の担当であったので、私にとっては、なにかと都合が良かった。

 「事務総局長、こんどブラジルで標準化を行っている研究会(スタディー・グループ)の作業部会が開催されます。これが予定されている調整のための最後の作業部会ですが、このままでは、特許の扱いについて米欧の企業間の話がこじれて世界標準の案がまとまりそうにありません。ITUの歴史の中で、未だかって作業部会レベルの会合に事務総局長が出席したことはありませんが、ひとつ出向いて発破をかけたらどうですかね」

 「本来は担当局長のジョーンズ電波局長がやるべきことだろう」

 「その通りですが、あのジョーンズが行きますかね?」

 この話を聞きつけた日本の郵政省の担当課長は、「どうせ話しがまとまらないところに事務総局長が出向くのは、いかがなものか。」と、反対の助言をよこした。

 第三世代の携帯電話は、単なる携帯電話ではなく、インターネットを含む全ての通信のために使う次世代の電気通信ネットワークであると考えられ、当時のITUでは、最大の課題であった。私は、そのような重要な案件が困難な状況にあるとき、事務局幹部も積極的に何らかのお手伝いをするべきだと考えた。

 また、第二世代の携帯電話が普及し、さらに増加する携帯電話の需要に応えるためには、第三世代用に割りふられている電波を使用せざるを得ない日本の特殊事情のためにも、早く標準化作業をまとめる必要があった。

 そこで、ジョーンズ局長に「ブラジルの会合に出席したらどうか」と話したが、「そんな所に自分が出る幕はない」と素っ気なかった。結局、慣行や日本政府の助言を無視して私があえて会合に出席し、日米欧が対立している標準化案の妥協をアピールすることにした。このブラジル行きが、事務総局長としてのはじめての海外出張であった。

 私が、ブラジル会合に出席するということを聞きつけたヨーロッパや米国の関係企業の担当役員たちが、それぞれの立場を説明しにジュネーブへ飛んできた。私は、こうして期せずして彼らの腹の中を聞くことができた。また、ブラジルの現地でも、関係企業や各国の利害関係を聞くことになった。

 幸いなことに、私の出席は、利害関係者たちに、「この際それぞれ妥協して話をまとめよう」という雰囲気作りに大いに貢献し、まとまらないと言われていたブラジル会議で話がまとまったのだった。

  ある技術を、話合いで世界標準として決定し、普及させるためには、誰でもがその技術を使用できなければならないから、特許の公開が前提になる。もちろん有料である。技術を開発した企業は、その技術をできるだけ高く有料公開し、話合いによる標準化によって利益を得る道を選ぶか、あるいは、技術を独占して、自らの力で世界に普及させて利益を得る道を選ぶか、大きなビジネス戦略の判断を迫られる。

 標準化の議論をしているブラジル会合は、いわば表舞台での出来事であった。その裏では、米国提案の方式のみならず日欧が提案した方式の基本特許を多く持っていた米国のカルコム社と、エリクソン社を始めとする欧州企業との間で、特許公開の裏交渉が行われていた。すなわち、誰が誰にどれだけ開発技術の使用料を支払うかという交渉である。

 そして、一言で言えば、カルコム社の技術を欧州企業が買うという裏舞台の特許交渉の妥結によって、表裏一体となって行われていた表舞台の標準化交渉の合意も、このブラジルにおいて成立したのであった。米国高官の私に対する圧力は、当然、カルコム社の利益をサポートするためにあったのであった。

 このようにして何十兆円ものビジネスが想定された第三世代携帯電話の日米欧の駆け引きのまっ只中に身をおくことになり、世界企業のビジネス戦略や交渉力について、日本のほとんどの人が理解できてない事実を目の当たりに見ることがきたのだった。」

 このような背景のブラジル会合でとても感心したことがある。それはエリクソンの宣伝活動であった。

 北半球ではまだ冬の3月だったが、南半球で、かつ赤道に近いフォートレザは真夏の太陽がビーチを照り付けていた。とても背広などは来ておれない。困ったなと思っている矢先、エリクソンは会議参加者に大きくエリクソンと書かれたTシャツを配ったのである。全員が、これ幸いと喜んでそのTシャツを着て会議に出席した。厳しい各国間の駆け引きの場が、まるでエリクソンの社内会議のような雰囲気になった。

 このことがエリクソンに有利に働いたかどうかは判定のしようがない。しかし、日本からの出席したドコモの存在感は薄かった。人は一般的に、美しい顔や理知的な顔の人、また体格の大きい人、声の大きい人、堂々と話す人などの意見を聞きがちである。エリクソンのTシャツ戦略による会場の雰囲気作りは、エリクソンにとって決してマイナスに働いたとは思えない。

 フォートレザでは、私はドコモの幹部から会食に招待され、ごちそうになった。多分、ドコモは、交渉相手にも同様に会食で接待し、少しでも有利になるよう努力したに違いない。日本では豪華な酒食で饗応することにより交渉を少しでも有利に進めることができると信じられ、企業は多額の交際費を準備するが、それは必ずしも国際的な定石ではないとつくづく思った。

(次回は、国際的な会食の姿を予定)


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8回 飲食の知恵  January 11, 2023

古今東西、人間は飲食を共にすると特別に親しい間柄になれる。それは、人類が生存のため、共同生活をうまくできるようにと培ってきた本能ではないかと思う。そして、人種や地域ごとに様々な食文化が形成されている。グローバル化の進展で、その差異はだんだんと薄れてきているが、海外にはまだまだ日本人に参考になる飲食の取り方や習慣がある。 

  コーヒータイム、ティータイム

欧米には、午後の3時ごろ、コーヒータイム、あるいはティータイムと称して、一斉に休憩を取り、食堂などに集まってコーヒーを飲む慣習のある職場が多い。

ITUでは、このような定めはなかったが、職員たちは好き勝手に食堂に集まってきて、油を売っていた。それを誰も咎めることはしなかった。私の秘書も、その時間帯に煙草を吸いに行って、様々なうわさ話や情報を仕入れてきて教えてくれた。事実上コーヒータイムが存在したのであった。

UPU(国際郵便連合)では、公式の慣習があり、その時間帯には全員が食堂に集まるしきたりらしい。ある日本人職員は、皆が個室で働いているため、このコーヒータイム以外の時間に仲間の職員と話しをしたことがないとまで言っていた。

若い女性の仕事がお茶くみだといわれた日本の事務系の職場では、どんな時にも平気でお茶やコーヒーを飲み、仲間と無駄話をするのが一般的である。したがって、ことさらコーヒータイムを設ける必要性はないが、職場でお茶を飲むのが一般的ではない欧米の職場では、一息入れる大事な時間である。と同時に、職員同士が情報交換をする重要な機会を提供している。

職場での雑談やお茶が一般的な日本の場合も、誰とでも可能というわけではなく、ごく近くの席の人とだけである。また、工場などでは、お茶を飲むこともむつかしく、ましてや無駄話などできない。

働くときはちゃんと働き、休息をとるときは公に休息をとる、そして広く仲間との情報交換も行うというけじめがついた欧米の職場と、だらだらと皆でなんとなく仕事をし、雑談をしてけじめがないが、チームワークは取りやすい日本の職場と、どちらが良いとは一概に決められないが、世の中一般がドライになってきている昨今、欧米の風習は多いに参考になるのではないだろうか。

日本の工場などブルーカラーの職場の生産性は高いが、ホワイトカラーの職場の生産性は欧米に比較して非常に低いといわれている。その大きな理由は、個室で一人一人が明確な責務をもって仕事をする欧米に比べ、誰に責任や権限があるのか不明確な集団が大部屋で仕事をする日本の仕事のやり方にあるだろう。ホワイトカラーの生産性を国際標準にまで高める第一ステップは、案外、コーヒータイムを設定し、お茶を飲む時間を決めることから始まるのかも知れない。なぜなら、働く時には働く、休むべき時には休むというメリハリのある働き方で、労働時間内における生産性が高まるだろうし、そのような規律が職場に浸透すれば、おのずから個々人の仕事の範囲も明確になって、多人数で無駄なことをダラダラとやらないようになるのではないか。

 

  役所の乞食パーティー

大学を卒業して東芝に入社し、日比谷公園に面した日比谷電電ビルにあった本社で1年間勤務した。ビルの大半は電電公社の本部が入居しており、その上層部3層を東芝が借りていた。電電公社の食堂を利用できたが、そこでは腕に黒い袖カバーを付け、つっかけを履いた公社の職員に会った。東芝の職員のようにワイシャツにネクタイをして革靴を履いたすっきりした雰囲気の人はあまりいなかった。自分は窮屈なので職場でネクタイを外したら、上司に叱られた。そんな東芝の者から見ると公社の人たちは、田舎臭いだらしない小役人に見えた。

その後、東芝を辞し、郵政省に転職して驚いたのは、課長も開襟シャツでネクタイをしてないし、つっかけを履いていた。配属された郵務局輸送課では、夕方になると私の仕事は、席の後ろにあったガスのバーナーに鍋をかけて天つゆを作ることであった。先輩が近くの店で買ってきたてんぷらを肴に一升瓶を開けて酒盛りが始まる。課長を中心に皆でワイワイガヤガヤ、話題はたいてい仕事の自慢話や世相の批判であった。この酒盛りで、上司たちの個性はもとより、仕事の課題や秘訣などが分かった。

その後、海外出張の多い電気監理官室という電電公社を監督している職場に移ったが、一升瓶が洋酒に変わり、てんぷらは、チョコレートやチーズに変わったが、やはり同じような飲酒パーティーが5時過ぎから始まった。

郵政省を卒業する頃には回数が激減していたものの、何かの折に、同じような職場での飲酒があった。しかし、つっかけを履く者は、さすがに皆無となっていた。

多くの民間一流企業では、職場で酒を飲むということなど、言語道断のことだろう。昭和50年ごろ、「小集団管理」という人事管理の手法がブームになったことがあるが、何のことはない、役所では長年、「乞食パーティー」と卑下して呼んでいた自然発生的なコミュニケーションを、人事部の指揮のもと「小集団管理」という名でスマートに行おうとしたものにすぎない。

この役所の乞食パーティーの習慣も世の中の近代化につれて自粛され(すたれ)、職場内のコミュニケーションが悪くなって一体感が薄れてしまった。個々人の責任が明確でなく、あいまいな集団で仕事をする仕組みの日本社会では、上司や仲間とのこのような場がなくなると、組織への帰属意識も薄れ、天下国家を悲憤慷慨する機会もなくなる。また、相互牽制する機能も失われる。それが霞が関の士気の低下や、横行する不祥事にもつながっているように思えてならない。

   カクテル・パーティー

一人一人の責務が明確に規定されていて、アシスタント(秘書)に補助的な仕事をやってもらう以外は個人単位で仕事をする欧米社会では、そもそも職場の友との付き合いも少ないし、ましてや職場で飲むなどという習慣がないと想像しがちである。しかし、必ずしもその認識は正しくはない。案外彼らも機会をとらえて会食や飲み会を行う。その一つに「カクテル」というものがある。

大きな辞書にも「カクテル」という言葉には、カクテル・パーティーを意味する定義がないが、外交官たちは、カクテル・パーティーのことをカクテルと呼ぶようである。そして、彼らにとっては重要な社交の場、すなわち仕事なのである。カクテルとは、夕食前の一時、種々のお酒とごく簡単なつまみとで、ワイワイ、ガヤガヤ飲む集まりのことである。

ITU内でも、「子供が生まれた」、「出張から無事帰ってきたので」、「大きな会議が終了した」などと、ことあるごとにインフォーマルな形で、主としてレストランの片隅で、場合によっては会議室などで仲間が集まっていた。1時間もすれば自然と解散になる。ITUでは、「00パーティー」とか、「ギャザリング」などと呼ばれていたように思うが、内容はカクテルと同じである。仲間同士の社交の場であり、楽しむためのものであるが、これに参加することによって、仕事がよりスムーズに運ばれるようになる場合も多い。

カクテルは、役人たちが行っていた乞食パーティーと実質的には同じものだと思うが、@開催される場所が、仕事をする職場そのものではなく、職場のレストランや会議室など、特定のより適切な場所であること A簡単なインビテーション(通知)があり、集まる者が、特定の職場よりはやや広範囲であること B立食であること等、少し洗練されていると思う。

日本では、「忘年会」や「新年会」あるいは「打ち上げ」など、やや重たい飲み会がよく開かれる。管理職など年配者は、喜んでか、あるいは義務感からか、当然のこととして参加するが、若い層は敬遠しがちのようである。

名称はともあれ、カクテルのように気楽に参加できる集まりが開催されると職場のコミュニケーションもスムーズになるだろう。よく聞く「女子会」などは、そんな場なのかもしれない。会社などでも、この種の集まりに場所の提供などの便宜を与え、もう少し奨励してもよいのではないだろうか。

  宴食、会食

ビジネスや外交において、極めて重要な役割を担う会食や宴食も、欧米と日本ではその考え方ややり方が異なる。その差異を認識すると、食事を共にするこれらの場をより有効に活用できると思う。

日本食の場合、大きく分けて@大広間で行う大宴会、A座敷で行う宴会や饗応、B狭い部屋で少人数の密談と三通りの方法がある。映画では@の場では、00株式会社宴会部長が大活躍をする。Aの場所では、上座に座った代官や幕閣に御用商人が這いつくばって接待する。Bの場では、ひそひそと取引や企みが練られる。

西洋式の会食の場合は、大きく分けると、@宮殿やホテルの大宴会場で行われるレセプション A食堂で行われるディナー Bレストランのテーブルでの少人数の食事 ということであろうか。映画では、@の場合、シーザーの凱旋の宴のようなものから、貴族や金持ちが開催するパーティー、さらには日本でもよく開かれる企業が開催する一般的なレセプションなど、様々なものがある。Aの場合は、もっぱら貴族の会食の場がイメージされる。Bは、男女の逢瀬である。

それぞれ目的が異なる会食なので一概に比較はできないが、国内外でビジネスに関連して頻繁に開催される中規模の会食であるAの場合を比較してみよう。

日本式の場合、座敷には必ず床の間があり、客は床の間を背にした上座、接待する側は下座に座る。接待側は、美食と巧言、場合によっては美女を侍らせ、歌舞音曲をもって客をもてなし、饗応するのである。ポイントはいかに客が気持ちよく満足するかにかかっている。夫婦同伴ということはまずない。もっぱら仕事上の会食である。商人が役人を接待するという場から発展した会食形式と考えればわかりやすい。

一方、西洋式の場合、ホストは大きなテーブルの中心に座り、厳格な席次のルールに従ってホスト側とゲスト側は入り交ざって座る。ホストは客に美食を提供して持てなすわけだが、日本のように這いつくばって機嫌を取るということはなく、もっぱら会話がしやすいような座席配置で、ホストもゲストも対等に楽しく話が進むことに配意する。ホストの役割は、心地よい会話の場の提供であり、饗応ではない。仕事上の会食も多いが、夫婦同伴でお付き合いをする場合も多い。「饗応する」という英単語は存在せず、entertain with food and drink と説明しなければ、饗応するという感覚が西洋人には通じないことからも、彼らの会食の目的が想像できる。貴族同士の社交の場から発展した会食形式と考えればわかりやすい。

このように両者には大きな違いがある。一言でいえば、和食の場は客を饗応する場、洋食はコミュニケーションをする場なのだ。したがって、客が洋食を好むからという理由だけで洋式の会食をすると、会食の目的が接待である場合、それはかなわないことが起きる。そこで洋式でも客側を、窓側や暖炉側の上席と思われる側に一列に座らせ、向かい合って接待側も一列に座ってゴマをする和洋折衷の体制を作らねばならなくなる。また、ワインは、がぶ飲みするものではなく、食事の味を引き立てるため食事をとる者が自ら適量を飲むものだと思うが、このような場では、接待側が客にワインをどんどん勧めて客を酩酊(悪酔い)に追い込むようなことが起きる。

もちろん饗応により相手を心地よくさせて交渉を成功させることも重要であるが、このような植民地的な手法は、現代では国際スタンダードではない。国際スタンダードの会食の場はウイットや教養ある会話を通じて人格同士がぶつかり合い、互いに腹の中を探り、信頼できる間柄になること、すなわち互恵の関係になるための場である。そしてその後の話がスムーズに進むことにつなげる。

上手に互恵関係を築くためには、このような会食の場で、まずは誰とでも楽しく話ができることが肝心だ。そのためには会話のネタや技術が大事になる。また、相手に立派な人物だと評価され、信頼されなければならない。そのためにエリートたちは、言葉の端々から教養の深さがにじみ出るよう、文学、芸術、歴史などを日頃から研鑽しているのである。相手を喜ばすために、ヒョットコ踊りやカラオケを練習する日本のビジネスマンとは大違いだ。

このように洋の東西で、会食の目的は大きく異なり、その目的に沿ったように場が設えられている。日本では相手を喜ばすことが主目的になり、西欧では相手の信頼を得ることが主目的になって会食をするのである。

東京オリンピック招致運動の中で「おもてなし」という言葉が流行り、日本のお家芸のように自慢げに喧伝される。確かに日本の「おもてなし」いっぱいの宴席を設けられて不満に思う者はいない。しかし、私には「おもてなし」➔「饗応」➔「過度な卑下と恭順」と連想され、腹立たしいい。特に相手が金満体質のIOC委員や政治家だと思うとなおさらである。外交の場でも、ビジネスの場でも、品格のある晩さん会が開催できる国民となって、初めて一流国といえるのではないだろうか。 

(次回は、携帯・スマホメーカーの興亡を予定)

 

 

 

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第9回 携帯端末の攻防       Wednesday, March 8, 2023

先日、年老いた先輩に聞かれた。

「携帯を買い替えたいが、どこにすれば良いか?」

「どこのメーカーでもほぼ同じです。高いものは高機能。しかし使いこなせないから安いものでよいでしょう。数年前までは、韓国製が主でしたが、今は中国製ばかり。」

「日本製はないのか?」

「純粋に日本製のものはないでしょう。」

「・・・・・中国製は買いたくない。」

高齢の先輩は、現状を理解しがたいようだった。

なぜ、日本はこのような状況に立ち至ったのか、真の理由を分析することはむつかしいが、私なりの考えを述べたい。

 

「ガラパゴス化」は本当か?

2007年、ジュネーブより帰国して、頻繁に聞いた言い訳は、「ガラパゴス化で、日本の携帯は海外で売れない」ということだった。ジュネーブでよく聞かされていた言い訳は、「世界標準を採用しなかったから売れなかった。」だった。この「ガラパゴス化」が当初ピンと来なかったので、その間の状況を述べたい。

当時、世界的に3Gのサービスが開始されていたが、ジュネーブでの普及はまだまだで、私の携帯もアメリカでも使用できるノキア製の2Gだった。このノキアの携帯は、クロム製の高級感漂うもので、世界中、日本以外の国でほぼ使用でき、国際的に活動する経営者やビジネスマンは、ステイタス・シンボルの一つとして、この携帯を持っていた。エリクソンも同じようなものを販売していたが、こちらはプラスチック製の実用的で一般向けのものだった。

G規格を決めたITUでも、3Gの携帯を持っているものは身近にはいなかった。アップルがスマートフォンを発売していたことは聞いていたが、見たこともなく、日本では床屋の主人が使用経験を話すのでびっくりした。このように、帰国した時期は、国際都市ジュネーブでも3Gがやっとサービスを開始したばかりで普及は全くしてなく、スマートフォンも見ることさえむつかしい状況だったが、日本はかなり先を走っていたように思う。

帰国の直前、香港で開催したITUの大イベント「世界テレコム」で、中国政府がファーウエイ製の3G携帯を香港滞在中に使用できるようVIPに配った。私は、ノキアの携帯を持っていたので、ファーウエイは使用せずに持ち帰った。

日本へ帰国して一番にしたことは、電話加入である。日本では、住民票を見せて登録しないと電話が使用できない。住民登録をしてドコモショップに行き、手持ちの携帯電話が使えないか調べてもらうと、上記のファーウエイ製は、3Gでは使用できることがわかった。しかし、当時、新規加入の場合、端末料金が無料だったので当然、無料で2Gでも使用できる端末を頂いた。後で、日本製端末とファーウエイ端末を比較してみると、ファーウエイは日本語をはじめ多数の言語対応、もちろんGSMにも対応、カメラがあり、インターネッットにもつながる。日本端末に負けるところは、お財布携帯の機能ぐらいである。海外使用を考えると、むしろファーウエイが勝っているところが多いことになる。結果、海外に出張する際には、日本の端末からSIMカードを抜き、ファーウエイに刺して出かけることになった。

9年ぶりに帰国して感じたことは、ICTの面では「やっぱり日本は進んでいる」ということであった。ちなみに、ネット情報ではあるが、モルガン・スタンレーの調査報告によると、2008年現在、日本の3G普及率は84%、北米地域29%、欧州の25%となっていて、統計的にも証明されている。

しかるに、日本には安価なサムソンの端末があふれ、世界規模では、日本の端末の製造販売は数パーセントにもならない。ノキア、エリクソン、モトローラ、サムソンが世界を制していたのである。そのようになっている理由として盛んに言われていたのが「ガラパゴス化」であったが、私にはピンとこなかった。

「ガラパゴス化」とは、いったいどういう意味だろう。日本という特定の地域で、他の地域では必要としないような技術が進化して、他の地域では売り物にならないことを揶揄しているそうだが、日本の携帯は、本当にそうなのか? 前述のファーウエイの端末との比較の例を出すまでもなく、決して日本の携帯は特殊な技術をたくさん積みこんだ化け物のようなものではない。外国の高級端末と同じである。異なる点は、言語や、使用周波数、通信方式などの面で、日本だけでしか使えない単純な仕様であるということである。ならば、ガラパゴス化は不適切な表現である。日本は、諸外国と異なる通信方式を採用し、海外の端末は日本では使えないようにすると同時に、日本でしか使えない端末を販売する、強いて言うならば、「鎖国化」ではないだろうか。

そもそも日本には、日本製品を守るための鎖国化の意図はなかったと思う。しかし、NTTを核に開発した方式が高機能かつ効率的なものであると信じ、世界はこの高機能規格を採用すべしという独善的な判断のもと、日本規格を採用した。一方欧州では、各国共同でGSM規格を開発採用し、欧州やその周辺は欧州規格を採用した。いわばGSMが世界を征したわけである。一方、米国も唯我独尊、モトローラを中心に独自の規格を採用して、日本でも使用するよう強力な政治的圧力(日米貿易摩擦―MOSS協議)をかけてきて、日本政府は応じることになった。

 

世界標準を採用しなかったからか?

Gの時代は、この「鎖国化」状況は明快であったが、3Gになると世界標準を採用したので、まさに「開国」したのである。海外端末も日本で使用できるようになった。日本の端末も海外で使用できる。しかし、3Gネットワークが一気に普及したわけではなく、2Gネットワークにも依存せざるを得ない期間は長かった。したがって、やはり海外の2Gが使用できる端末でなければ、海外では売れない。

それでは、日本メーカーを引き離した世界のメーカー、ノキア、エリクソン、サムソン、ファーウエイ、モトローラなどは、世界中で使用できる端末を製造販売したのだろうか。私の現役時代、ヨーロッパとアメリカで使用できる端末は、前述のノキアとエリクソンの2機種しかなかった。どのメーカーも、特定の地域だけで通信できる端末しか製造販売してなかった。しかしながら、欧州、アフリカ、中東地域ではGSM端末、アメリカでは北米方式端末という簡単な仕分けでほぼ全世界をカバーできる。そして自国に限らず、世界中がマーケットの対象とすることが容易であった。

これらのメーカーは、鎖国状態の日本にも代表や販売拠点を置き、まだ郵政省の役人だった私にも積極的にアプローチしてきた。フランス・テレコムの若い駐在員は、「このような形で海外へ出ると兵役が免除される。」と言っていたので、同じような仕組みを持つヨーロッパの国もあるに違いない。

一方、日本メーカーがGSM端末や北米方式を製造して海外市場に挑んだという話は聞いたことがない。盛んに「ガラパゴス化」と叫ばれていたころ、日本と同じく独自規格の2Gであった韓国のサムソンは、GSM端末を引っ提げて世界市場に躍り出ていた。サムソンができて日本メーカーができなかったのはなぜだろうか? 

そもそも意味不明の「ガラパゴス化」が理由ではないことは明らかである。また、世界標準(GSM)を採用しなかったのが真の理由とも言えない。なぜなら、韓国も世界標準ではなかったのだから。もちろん、仮に日本がGSMを採用していたと仮定するならば、海外進出に有利な立場に立っていたことは確かだ。しかし、GSMを作り、世界を制したノキアやエリクソンがサムソンに敗れ、そのサムソンがファーウエイに敗れ、今やファーウエイも米国連合の強力なバッシングの中で、新興中国企業に地位を脅かされている。どうも世界標準も決定的な要素ではなさそうである。

その大きな理由は、技術の飛躍的な発達により、通信方式の差異や周波数の違いは、端末で技術的に容易に解決ができるようになってきているからだと思う。加えて、現代のスマホの時代では、2Gのサービスも終了し、3G以降、標準化の差異の問題は事実上存在しなくなったからだ。

 

G 4Gの時代の技術開発の担い手

日本は、世界標準の決定を待ち、いち早くそれを採用して、世界に先駆けてサービスインした3Gであったが、劣勢を挽回することはできなかった。スイスより帰国した2007年、スイスではまだ3Gは普及してなかったが、日本では携帯といえば3Gが当たり前だった。しかし、この時すでに、世界市場で皆無の日本は、その理由を「ガラパゴス化」論や、世界標準を採用してなかった過去のことを問題にし、日本はダメだとの自虐論ばかりで、トップを走っている力を世界のマーケット開発に向けようという積極論は皆無に等しかった。

Gの世界標準がまだ決定されてない1998〜9年のころだと思うが、ドコモの幹部から「せっかく3Gサービスを世界で最初に開始しても、日本端末がない。売り出せるのはサムソン端末になる。」という話を聞いたことがある。暗に通信自由化政策の失敗を批判しているのではないかと思いながら拝聴した。NTT護送船団方式で技術開発を行っていた自由化前なら、このようなことは起きなかったはずである。自由化後、日本の技術開発力は目に見えて落ちた。10年遅れで自由化した欧州でも、日本に遅れること10年で、同じことが起きた。そして、韓国、中国が勢いを増した。

その後、ネットワークを3Gから4Gに漸次アップグレードする方法が議論されて、知らぬ間に4Gとなった。

そして、スマホの時代となり、ガラ携(3G)のサービス停止も目の前に来ている。世の中にあるのは今やほとんどが中国製の端末。たまに日本のメーカーの名前がついているものもあるが、中国製である。

もちろん端末は、携帯ネットワークのごく一部であるが、一般人に見える端末部分に日本メーカーの顔が見えないことは、やはり産業全体の衰退の象徴と映る。

時代はスマートフォンや大型のスマートパッドへと移り、時代遅れの携帯は、「ガラ携」と呼ばれ、いまだに「ガラパゴス」が象徴としてついている。しかし、その意味は「素晴らしかった過去の名品」と大変化しているのではないか。ある通信事業のトップが「スマホでできることは、すべて携帯でできる」と言って、スマホはあまり普及しないだろうと予測した。しかし、人間の欲望は、単に機能だけではなく、美しさや、他人からの注目、他人との同一化など複雑怪奇である点を見過ごしていたと思う。

さらに、皆が「ガラパゴス化」と叫んで言い訳をしているとき、「それは違う、ダメな理由は他にある」というのは、その業界からつま弾きにされるのとほぼ同じであっただろう。当初、ピンとこなかった「ガラパゴス化」もこのように解釈すれば、何とか理解できる。

 

なぜ韓国に負けたのか?

技術力、資本力、先進性、規模、いずれの点を取っても優位であった日本が韓国に負けた理由は、「ガラパゴス化」でもなければ標準化でもない。その理由はもっと根深い国民性や経営者の力に起因するところが大であるように思う。

講演録「なぜICT分野で韓国に負けるのか」(別添)で詳しく述べているので参考にしていただきたい。帰国して間もない20079月の講演であるが、15年後の今読み返してみても、状況は、まったく変わってないと思う。

一方、「過剰品質が主因ではない 日本半導体が衰退した本当の理由」(日経クロステック田口眞男氏)は、上記のような精神論を避け、より冷静な日本企業の体質分析を行っているので、参考になる。

 

なぜ中国は勝ったのだろうか?

さて、その韓国勢が、中国に負けている。一般的に言われていることは、「モジュール化」である。ディジタル技術の発達により、IT製品を構成する各ユニットがモジュール化して、一個の部品のようになった。スマホの場合を例にとれば、基本となるCPUと液晶サイズを決め、使用地域を決めれば、それにあった送受信のモジュールや画像処理のモジュールが決まる。それらを組み立てればスマホが簡単に作れる。スマホ開発製造の要員は、万の単位から百や十の単位に激変する。さらに組立を専門に引き受けてくれる工場や、また、スマホの設計をもしてくれる設計業者も出現した。極端なことを言えば、資金を持った経営者一人で、スマホ・メーカーになれるほど、産業構造が変革してしまったのである。

このような技術革命は、もともとは半導体技術や微細な部品技術を持つ日本企業の技術が基盤となり、多くの研究者や技術者を抱え、バイタリティーのあったサムソンやファーウエイが推進したと思う。彼らはこのような技術革命を起こしながら、その革命の波にのまれて、シャオミなど新興中国企業に激しく追い上げられるという皮肉な結果となった。

いくら14億の民がいる中国といえども、自然発生的にこのような技術革命が起きたわけではない。その間の事情は、別添の朝日新聞吉岡桂子氏の「大言壮語と思っていたら 元ITUトップが語る中国のIT」を参照されたい。結論を一言でいえば、日本人は中国の技術開発力を侮りすぎていたということであろうか。

しかし、モジュール化のメリットは、新興中国企業だけに及ぶものではない。日本の伝統的な大企業も同様の大きなメリットを受ける。資本力や人材、販売網がそろっていた日本の大企業は、モジュラー化のメリットを最大限に生かせば、これらを持たないベンチャー企業に対して、極めて有利な立場にいたわけである。モジュラー化は、「モジュール化によって、新興企業もそれまで不可能だった市場に新規参入することが可能になった」と言うだけの意味しかない。

だが、どうしてやっと市場に参入できたこれらのベンチャーに伝統的な企業が太刀打ちできなかったのだろうか? 意思決定のスピードの違い、リスクの取り方の違い、経営効率の差など、ICT問題を超える経営学的諸問題が背景にあると言わざるを得まい。

 

日本企業が負けた真の理由

日本企業が負けた真の理由は、世界標準を採用しなったことでもなければ、ガラパゴス化したためでもない。単純に、海外市場には一切出ようとしなかったからである。それはなぜか? 端末がコスト高で太刀打ちできなかったからだ。そして開国政策(世界標準の3G採用、また、それ以前に、すでに日米貿易摩擦という形で、米政府の圧力で米国方式を強制採用させられていた)を採ったとたんに、進出してきた海外企業に価格競争で負けて日本の市場からも撤退せざるを得ない状況になったのである。

鎖国状態の保護された市場で繁栄していた産業が、自由化によって壊滅的な打撃を受ける例は枚挙のいとまがない。いち早く産業構造を変革して立ち直った業界もあれば、衰退してしまった業界もある。ICT分野では、開業以来NTTに依存してきた体質を、通信の自由化で変革を迫られたが、不十分であった。そこへ、世界標準化の波、携帯電話からスマホへの波、そしてモジュール化の波と大津波が数次にわたって連続的にやってきて、壊滅状態になったのだと思う。そんな中、とても「日本製はコストが高くて商売はできない」とは言えないので、思いついた理由が、自分には責任のない「世界標準を取らなかったから」「(技術力が高すぎて)ガラパゴス化したから」という理由ではないだろうか。そんなことをまともに信じていたのでは、いつまでたっても勝機はつかめない。今、日本全体で起きているICT関連産業の衰退は、本当の理由に真摯に向かい合い、その問題を解決しなかったことに起因することが多いと思う。

10年ぐらい前になるが、ある大手通信機メーカーの社長に、「これから生きていく道は、部品(モジュールなども含む)に傾注することではないか」と尋ねたところ、「それでは従業員を食わせられない。ソルーション(ソフト)だ。」と応えた。今、その会社のホームページを見ると、個人向けにはICT機器を売るメーカーのように見えるが、法人向けには各種の問題解決のサービス業のように見える会社となっている。まさに「ソルーション」を売り物にしているようだ。

 

 

  

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